街の灯り、ふたたび【戸越銀座物語】5話 あやかり銀座

戸越銀座はよく「あやかり銀座」の第1号といわれる。

本家東京都中央区銀座の名を拝借し、○○銀座と名乗る商店街は全国に数百あるといわれるが、戸越銀座が本当に第1号かどうかははっきりしていない。

しかしながら本家銀座と少なからずご縁があるのは事実だ。

銀座は明治5年の大火の後、街の不燃化を目指し煉瓦造りの街並みを造っていたが、大正12年の関東大震災によって壊滅的な被害を受け、煉瓦街は消滅する。

その跡には大量の煉瓦の瓦礫が残ったという。やはり大震災で壊滅的な被害を受けた東京下町や横浜方面の商業者たちは、当時発展著しい工場地帯の大崎駅周辺である戸越銀座に活路を見いだし、新たな商店街を形成し始めていた。

三ツ木通りから戸越銀座通りは全長2キロ以上に及ぶ長い一本道で、両側が坂道の構造のため非常に水はけが悪く、ちょっとした雨量でも浸水してまるで川のようになる大変な土地だったそうだ。

店舗は通りに面した部分こそ平らなたたきだが、生活する店舗奥の自宅へは、水が出たときに浸水しないよう4〜50センチかさ上げされて設計されていた。

今でこそ電線が地中化され、美しい空がいつでも望める安心安全が確保された最新の街路を誇るが、昭和30年代中ごろ暗渠排水(下水)の大工事が行われるまでは、どぶから溢れ出る水が商店街の人たちの悩みの種だったという。

舗装もない砂利道に水が出るとぬかるんでしまい、お客様もとてもじゃないが歩きづらい。

そんな折、銀座で発生した大量の煉瓦瓦礫処理が問題になっていたそうで、復興に向けてさまざまなアイディアが出されていたようだ。

銀座の煉瓦製造元のひとつに「品川白煉瓦株式会社」があった。

日本初の靴製造会社「伊勢勝製靴場」やメリヤス靴下の製作などを手がけた明治時代の実業家、西村勝三氏が起こした会社だ。

その会社が品川にあった縁で水はけの悪い戸越銀座の悩みを伝え聞き、困っていた銀座の瓦礫処理と結びつけ、瓦礫となった煉瓦を通りに敷き詰めて舗装材として再利用する提案がなされたという。

その煉瓦をいただきに銀座までリヤカーを引いたという話を、初代商店主の方から直接うかがったことがある。

私はこの話を語り継ぐ使命があると感じている。日本一の商業地「銀座」から煉瓦をいただいたのだからと銀座の賑わいにあやかって、江戸越えの「戸越」と「銀座」をつなげて「戸越銀座通り」と名乗ったのが最初のようで、由緒ある「あやかり銀座」ではあるようだ。

あやかり銀座の第1号というのは定かではないが、駅で「銀座」と名のつくところは、池上電気鉄道(現・東急池上線)の「戸越銀座駅」が日本でいちばん最初なのだ(昭和2年開業)。

地下鉄銀座線の「銀座駅」は昭和9年開業なので、本家よりも戸越銀座駅が古い歴史をもつというのは、ちょっとした自慢でもある。

こんなふうに江戸時代からの由来や日本一の商業地とのご縁を、地名や通り名、商店街の名前に冠し、先輩たちが地域の発展を願い作り上げた街を、愛おしく大切に思っている。

(街の灯りふたたび 戸越銀座商店街物語著者:亀井哲郎氏より寄稿)