私の育った東京都品川区・戸越銀座は、関東大震災直後、被災した土地を逃れてきた東京の下町や横浜方面の商売人が移り住んで始まったといわれている。
当時、京浜工業地帯の要所として発展していたJR山手線 大崎駅にほど近い全長2キロ以上の一本道に少しずつ店舗が集まり始め、西品川〜豊町〜戸越〜
平塚といった土地に商店街を形成していった。
西品川の三ツ木通りから戸越銀座通りの2キロ以上の通りは、大崎駅周辺の工場で働く労働者や下請けの町工場で働く人々の街として第二次世界大戦を乗り越え、昭和30年代から40年代後半にピークを迎える。
昭和38年生まれの私は、いちばん商店街が輝いていた時代に少年時代を過ごしたといえるだろう。大正末期に創業した時計店で2人の姉のいる末っ子。父親は二代目として時計店を継承していた。
毎日が縁日のようで、通りは買いもののお客様であふれていた。夕暮れどきには八百屋から景気のいい掛け声が響き、うなぎ屋の店先には煙が立ちのぼり食欲をそそる匂いが漂い、肉屋のショーケースでは揚げたてのコロッケが最前列を陣取っていた。
毎日、当たり前のように見えていた光景…商店街は「暮らしの中心」だった。
小学生だった私は、学校が終わるとすぐには家に帰らず、隣接する戸越公園へ直行した。三角ベースボールや探偵ごっこ、缶蹴り、夏には池に忍び込み四つ網で魚やザリガニを捕り、竹竿に鳥もちを巻きつけトンボを追いかけていた。公園の管理人さんにはいつも叱られて逃げ回っていたものだ。
戸越公園は、子供2話暮らしの中心だった・上たちが日暮れにお腹がすくまで遊ぶ場所だった。
商店街はそんな子供たちの社会勉強の場でもあった。
帰りに商店街を通ると、近所のおじさん、おばさんが「てっちゃん、おかえり! 今日は早いね! 学校どうだった!?」と声をかけてくれ、こちらも歳の離れた近所のおじさん、おばさんに「〜ちゃん」付けで呼び返すのが当たり前だった。未成年のころ隠れてタバコを吸っていたのを見つかったときなど、自分の親以上にこっぴどく叱られて面食らったのを今でも
覚えている。
そんな具合に皆、街ぐるみで生活をしていた。大きなショッピングセンターやテーマパークなどもないから、買いものもちょっと遊びに行くのも、地元や近所の商店街だった。
街には、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さん、文房具屋さん、金物屋さん、お菓子屋さん、駄菓子屋さん、パン屋さん、酒屋さん、お茶屋さん、牛乳屋さん、洗たく屋さん、薬屋さん、うなぎ屋さん、居酒屋さん、電気屋さん、洋品屋さん、呉服屋さん、宝石屋さん、本屋さん、お風呂屋さん、花屋さん、不動産屋さん、写真屋さん、家具屋さん、ミシン屋さん、パチンコ屋さん、靴屋さん、床屋さん、パーマ屋さん、お米屋さん、煙草屋さん、おもちゃ屋さん、時計屋さん、葬儀屋さん、印刷屋さん、眼鏡屋さん、中華料理屋さん、お蕎麦屋さん、お鮨屋さん、洋食屋さん、おでん屋さん、瀬戸物屋さん、お豆腐屋さん、お惣菜屋さん、ケーキ屋さん、和菓子屋さん…何でもすべて揃っていた。
文房具屋のおばちゃんは狭い店内にうずたかく積まれた商品の中から、リクエストにこたえて必ず目当ての品物を探し出してくれる。おでん屋の前を通ると「はいよ!」と言っていつもの笑顔で昆布巻きをくれ、親戚のおじさんはパチンコ屋に行くと必ずチョコレートを勝ち取ってきてくれた。
(街の灯りふたたび 戸越銀座商店街物語著者:亀井哲郎氏より寄稿)